日本のお城講座・三浦正幸先生から学ぶ~マチコの知らない【明石城】
三浦先生の教室の中は毎回ほぼ満員です。
年齢層は高く、女性は約3割程度のお教室。90分の講座を集中して聞いています。
もっと活発にリアクションしたり質問した方が授業が盛り上がるのでは?と思っていますが、皆さん昭和な雰囲気で黙って、先生のお話をお行儀よく聞くという姿勢を貫いていらっしゃるようです。
私は授業後によく先生に質問をしたりして、疑問点を明らかにしたり、講義が楽しかったことを先生に直に伝えるようにしています。先生は質問にいつも親切に答えてくださいますよ。
今回のお城は明石城
お城は見た目が立派だと、ついすごい!!と私は感動してしまいますが、今日はちょっと違う視点でお城を見ることができるようになるという内容でした。
一言でいうと、見た目の立派さや豪華さではなくて、本当にお城を守る気が感じられるかどうか、ちゃんと外からの敵を攻撃するために考え抜かれた構造になっているかという点において、この明石城は大変貧弱と言わざるを得ないお城という解説でした。
以下沢山の明石城の劣っている点をあげつらうような内容になっておりますが、別に明石城をディするつもりはなく、お城について何が基本でどこが基本から外れてしまっているかを書いていますので、明石城が大好きな方は気を悪くしないで下さいませ<(_ _)>
先生の表現では『虎口の縄張りが劣る』と板書されました。
これまでは虎口がどれほどお城にとって重要かということを私は理解できていませんでした。しかし敵の侵入を虎口で完全に防御することは何よりまず第一に重要であるということでした。
例えば横矢を掛ける場合は四方八方から掛けるべきなのに、背中側の1方向からしか矢を打てない構造になっていたりするのは非常にもったいないというか、考えが足りていないということだそうです。詳細は後述します
譜代大名のお城
譜代大名が立てるとこうなりますよというお城の典型的なものが明石城
その意味はお金がかかっている割にはひどいお城ということだそうです。明石城の関係者の方が読んでいらっしゃったらごめんなさい。
一般論として外様に比べて譜代大名は城造りがうまくなかったというのが三浦先生の見解です。
連郭式と輪郭式
まず明石城は連郭式です。連郭式は立派に見えるのですが、守りに関して言えば劣っている。というのは三の丸から順に攻めていかなくても最初から本丸を攻めればいいからということです。
反対に輪郭式の場合だと一番内側に本丸があるので、絶対に三の丸から順に攻めていかねばならず時間も労力もかかります。では連郭式のお城は明石城だけだったのかと言うとそうではない。
例外的に水戸城と島原城も連郭式でした。水戸城の場合は周囲が湿地であったために、非常に攻めにくい条件でした。なので連郭式でもその弱さを補えたのです。
お城の勉強をしていると正保絵地図がよく出てきますが、この地図についての知っトク情報を三浦先生からお聞きしました。
それはこの地図には必ず周囲の山が描きこまれていて、かつその山からお城までの直線距離を描くように決められていたそうです。
この地図でいうと、右には人丸山とあり、三の丸まで253間と書かれています(文字が小さいので三浦先生が大きく手書きで書いてくださったものを赤字で写してあります)左上には平山とあり、本丸まで136間で、それぞれが500mと270mほどになる計算だそうです。
もうお分かりかと思いますが、何故この距離が大事だったのかというと大砲を打った時にお城に届くかどうかがこれで一目瞭然になるからです。
この当時の大砲の飛距離は500m~1000mだったので、少なくとも500m以上離れていないといけなかった。しかし明石城は大砲を打ったら当たってしまうという立地条件でした。
これは本当にアウト!!
横矢問題~謎の石
二の丸大の門を拡大した上記のイラストをご覧ください。
この階段を上がってくる敵に対して攻撃できるのは唯一貞櫓のみで、この構造上は背中からしか矢で攻撃できません。そして大の門の反対側に白い四角形の物が見えますが、これは櫓でもなんでもないただの石なので、これは攻撃の機能をはたしていないとのこと。
この謎の長方形の石はこの大の門以外にも至る所に点在しています。万の門、出の門、明の門等です。大いに疑問だと三浦先生の解説でした。
伏見城の真似?
本丸番の門はほぼまっすぐに敵が入ってくる動線。そして敵から見て左に雁木が設えてあり、こんな設備を作ったら敵が利用して城内を攻撃しやすくなるだけだと。何故こんなデザインにしたのか意味不明との解説でした。
私もよく雁木は見ますが、そういえば城の内側にあって外を攻撃する構造になっていると思っていました。確かにこの明石城の雁木は本丸の外にあって逆に内側を攻撃しやすくなっているなと気づきました。
天守台の位置が変
本来ならこの地図の乾櫓か坤櫓の場所が天守台がくるはずの場所だそうです。そのどちらでもなく、天守台が少し外に飛び出しているのは非常に不思議な位置。
少し飛び出した桝形
右下の西不明門のところにある四角いスペースは桝形です。でも桝形というのは外から攻めてきた敵を一網打尽にするための守りのかなめ。しかしこの桝形半分くらいドンと左に出っ張ってしまっています。こうすることで堀からくる敵を攻撃できるから理にかなっているのでは?と思いがちなのだそうですが、やはり門より中に桝形が収まっているのが正しいお城の造り方だそうです。
では何故こんな造りになっているのかというと、居屋敷が大きすぎてスペースがなくなってしまった。ちょこっと左に出すしかなかったのではないかとというのが三浦先生の推測です。
防御より居屋敷のサイズを優先してしまうところが、のんびりした感じがしますね(*^^*)
石垣下手すぎー( ;∀;)
この図の左の一番下にある平面図を見て下さい。坤櫓の1階部分ですが、左下に注目すると石垣が下と左にはみ出してしまっているのがお分かりになると思います。
他の角は石垣が隠れてしまっていて、ちゃんと寸法通りに積み上がっている証ですが、この一か所だけはどうも失敗だったようです。
下手すぎと書きましたが、でも考えてみたら石垣は上から作るわけでなく、下の方から順に積み上げていきつつ設計した寸法に収めるというのは逆にすごい技術だと思わずにはいられません。逆算して底辺の寸法を決めてそこから少しづつ狭くして最後はピッタリに作るというのは私には想像できません。
今ならコンピュータで簡単にできそうですが、一体どうやって計算していたんでしょうね。。。
平面図をよーく見ると、柱と柱の間の長さが違っています。一番外の左右は6尺5寸で、内側の3か所は5尺7寸です。本当は全て等しいのが正しい造り方だそうです。
ここからは三浦先生の想像ですが、石垣を造っているうちに、寸法が合わなくなったために、少しつじつま合わせをしてこのようになったとのことでした。
皆で知恵を出し合って、「ヨシ。これで行こう!」と決まったのでしょうか。なんとなくカワイイですね。
明石城のおかげで改めて石垣積み上げの技術について考えさせられました。
的確な例えになるか分かりませんが、ニットでフレアスカートを作るとしたら、普通はウエストから順に下に編んでいくと思います。少しずつ裾に行くにしたがって網目を増やして自然なフレアの広がりになるように編んでいけば何となくうまくスカートになりそうです。
しかし天守などの下に置く石垣はウエスト相当部分から作るわけにいかず、土から順に上に向かって積んでいき、最終的に天守の輪郭の長さピッタリに完結させるわけなので、想像以上に難しいに違いないと思いました。
櫓の窓について
同じ坤櫓のすべての方角からの立面図を見て頂くと、お城に詳しい方はアレ?と何か違和感を持たれるのではないでしょうか?
櫓の場合は城内には窓を作らないはずなのに、すべての面に窓があります。これは天守のようですねと。
そういえば窓について今までそんなに気にしていなかったので、今度お城に行くときは窓が無いのを確認したいと思います!
その他にも珍しい鈍角の石垣の鎬隅などの珍しい見どころもたくさんありますので、関西方面に行ったときは是非訪れてみたいお城です。
今回マチコが感じたことはお城は大きさとか立派さだけ見て喜ぶのではなく、その攻撃や防御の設備を見ることでとお城の違う顔が見えてくるんだということです。
お城の勉強は本当に楽しいです!また次回をお楽しみに♪
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